早朝のビジネスパークは人通りがなく、薄明かりの中でしんとしていた。
 何処か別の世界に踏み込んだような感覚を味わいながら、それでもビルの角や物陰に
それとなく気を配りつつ、恭介は待ち合わせの場所へ向かって歩いた。
(2丁目交差点の角を東に曲がった路地・・・と)
 角を曲がると、数メートル先の先の電話ボックスの脇に見慣れた覆面パトカーが停まっている
のが見えた。
 運転席にいる人物の顔を確かめて、さりげなく車の横まで近付く。ロックを外してもらうと同時に
素早く助手席にすべりこんだ。
 ドアを閉め、恭介がシートベルトの金具を差し込むのを確認すると即座に車は発進した。
「・・・お見送りはいなかったか?」
「大丈夫だと思います」
 そんな言葉を交わしてから、ようやく二人はお互いに挨拶を口にした。
「おはようございます、氷室さん」
「よぉ。朝早くからご苦労さん」
 シートに身体を預けて恭介がひとつ息をつくと、運転席から氷室刑事がそれをちらっと
横目で見た。
「どうだ? 具合は」
「あ・・・はい。平気です。――ご心配かけました。あの時はお手数かけちゃってすみません」
「なぁに、お互い様さ」
 バックミラーを覗いて氷室はステアリングを切り、車線を変更した。
「こっちこそ毎度すまんね。・・・スピード上げるけど、いい?」
「!」
 恭介は自分の側のサイドミラーを見た。
「来てます?」
「んー、1台だけな。怪我人のとこ悪いがちょっと揺らすぞ、勘弁な」
「はい」
 車は足元から高い音を立てて急に方向を変えた。
 迂回路に入って速度を上げる。次の角でもう一度。
「俺、油断して見つかっちゃってたかな・・・」
「うんにゃ。あいつ、さっきそこの横っちょから出て来たから、この車があそこ通るの張られて
 たんだろ。・・・でも、今日のはあんまり見掛けないヤツだなぁ」

 諏訪高貴が現在収容されている拘置所は都内にある。
 昨夏の事件で、当初は地元署への出頭・自首ではあったが、何しろ中央政界を巻き込む
大事件だ。主な舞台になっただけに遠羽にも合同捜査班は置かれたが、最終的に管轄は
警視庁に移動して、諏訪の身柄もそちらに移された。
 拘置所の面会は一日一回きりで時間も限られている。事件に関わる有力な関係者も多く、
そう簡単に会えるものではなかった。たとえ家族だとしてもすぐには難しいだろう。
 そんな中で、一般人にしか見えない恭介がこうして面会できるのは、事情を知らない外部から
すれば奇異に映るのは当然だった。
 彼がどういう立場にいるのかは関係者の間でも極秘扱いに近く――いろいろな意味で安全の
為だったが――本当に限られた人数しか知っている者はいなかった。
 しかし、カンのいい一部の記者などにはやはり何かを気付かれてしまっている。恭介をはじめ
あの時立ち会った氷室や諏訪の旧友である誠司は彼等にマークされる事になった。
 事務所や遠羽署など地元周辺では何とか遠ざけていられたが、少しでも遠羽を離れると
こんな風に追われるのだった。
 そこで面会に出かける時には用心して、張り込まれやすい場所を避け、毎回別の場所で待ち
合わせるようにしていたのだが・・・。
(それでもあの当時に比べればずっと減ったよなぁ・・・)
 直線道路を飛ばしながら氷室が話しかけて来る。
「入院中はだいしょぶだったかぁ? 俺が行ってバレちゃうとまずいから、見舞いにも行かなかった
 けどさぁ」
「所長がうまく手を回してくれたらしいです。最初に行方不明だったのがかえって良かったみたいで」
 あの件で得をしたのはそれくらいだ。
「んで、今は相方と一緒に居候してるんだっけ」
「・・・・・・・・・・ええ」
 あまりその件には触れたくない。
 しかし氷室は既にいきさつを聞いているのか笑って言った。
「いいんじゃないか? あんだけ大騒ぎした後だし、ちびちゃんにしてもお嬢ちゃんにしても、
 関西弁の小僧も、その方が安心するだろ」
「・・・ご隠居にも同じ事を言われましたよ」
「さすがにみんなお前さんの性格わかってるなぁ」
「・・・・・・・・・・」
 また急カーブで振り回されながら、恭介は無言でシートに少し沈み込んだ。

 追跡劇は短いうちに終了し、二人の車は無事、東京方面への幹線道路に紛れ込んだ。
「新人さんだったかな。割にあっさり諦めたな」
「到着直前にまた出てくるかも知れませんね」
「まぁその時はその時だな。どっちにしろ、しばらくは慌てなくていいだろう」
 信号待ちで停まると、氷室は後部シートに腕を伸ばした。
「小僧、朝メシ食ってきた?」
「いえ・・・ 俺、朝はあまり食べない方だし」
「まだ着くまで時間かかるし、着いたら着いたでまともに食ってるヒマあるかわからんからな。
 今のうち何か腹に入れとけ。――それ、伊佐山さんからの差し入れ」
 コンビニの袋を膝の上に投げられる。中にあんぱんと缶コーヒーが入っているのを見て、
ちょっと口元が緩んでしまった。
「・・・いただきます」
 高速道への標識の下に車を持って行きながら、氷室は
「伊佐山さんには会ったか?」
と聞いてきた。
「はい。一回、病院に来てくれました」
「そりゃ良かった」
 騒がしかったろうけどな、と氷室は笑った。
「ええ、まぁ・・・・・・」
 しばらくそんな風に近況を話し合いながら車を走らせる。
 途中の道路は特に事もなく、二人は数時間後、無事目的地に到着することができた。
 心配していた、出発時に尾けてきた車が再び現れる事もなく、他の妨害にもあわずに済んだので
恭介は少なからずほっとした。

 控室の手前には一人の弁護士が待っていた。
 難しい顔で腕時計を睨んでいたが、恭介と氷室の姿を見て表情が緩んだ。
「おお、よく来てくれたね。待ってたよ」
 廊下を近付いていきながら、二人も挨拶した。
「おはようございます」
「ご無沙汰してます、松井先生」
 この人は諏訪の弁護団の団長だった。ずっと人権関連の仕事に携わってきたという事だが、
昔所属していた法律事務所で諏訪の同僚だったという縁があり、この任に就いたそうだ。
 年齢も諏訪と同年輩、中肉中背で、一見して辺りを払う威厳のような雰囲気は持たないが、こんな
大役を引き受けた事でもわかる通り気骨のある人物だった。二人とはこうして面会の度に顔を
合わせている。
「今日は大丈夫だったかね、マスコミの方は」
「はい。出掛けに車が1台いましたが、特に支障はありませんでしたよ」
「そうか・・・」
 松井は息をついた。
「すまないね、真神君。退院したばかりだとは聞いていたんだが、彼の希望を叶えてやれそうなのが
 今日しかなかったんだよ」
「いえ・・・ 俺はかまいませんから。お忙しそうですね」
「ああ。ここの処、公判の打ち合わせで少々立て込んでいてね。それもあるし、この歳でここの
 暮らしだ、彼も疲れが溜まっているようでね・・・ 頑張ってくれてはいるんだが」
 気遣わしげな表情を笑顔に戻した。
「それじゃ、会ってやってくれるか」
「はい。松井先生は?」
「私は、今日はこの後の接見で会うのでね。氷室君、よろしく」
「・・・わかりました」
 松井弁護士をその場に残し、二人は控室から面会室の中へ入っていった。

 ――扉が開くと、部屋の奥に座っていた人物がはっと顔を上げる。
 監視の威圧感を受けながら、恭介は看守の前を横切って備えられた席についた。
 氷室は少し離れて後ろに立ち、そのまま待っている。
「お久しぶりです、諏訪さん」
「真神くん――」
 ポロシャツにストレートパンツという、外では見かけなかった私服姿の諏訪は、以前より少し
体重が落ちているようだった。恭介をじっと見つめ、やがて溜息をつきながら片手で顔を
撫でおろす。
「良かった、無事だったんだな・・・・・・」
「はい。――すみません、ご心配おかけしました」
「いや」
 諏訪は首を振った。
「私に君を心配する資格などないんだろうがね。しかし、最初は行方不明と聞いたものだから…」
「ただの交通事故だったんですけどね。俺のトラブル癖が出てしまって、なかなか連絡が取れな
 かったんです」
「そうか。・・・ここの生活は情報収集手段に乏しくてね、人伝てに聞くしかない事も多い。――
 その反動かな、見つかったと聞いて、どうしてもこの目で確かめたくなってしまってね。・・・我儘を
 いって、また君に迷惑をかけてしまった」
「いいえ・・・」
 そこで少し間があいた。
 氷室が静かに椅子の後ろから近付き、囁きかける。
「んじゃ、俺は控室にいるから」
「あ、はい。わかりました。すみません」
 氷室の姿が控室の扉の向こうに消えるのを見送って、恭介は椅子に座りなおした。
「京香さんと成美さんにはずいぶん叱られましたよ。所長にも相当手間をかけさせた筈なんです
 けど、『行方のくらまし方はまだだな』なんて言われてしまって・・・」
「あいつらしいな」
 諏訪は苦笑した。そうしてから、ふとその笑みを消す。
「こんな事を言ったら他の犠牲者の遺族には不公平だとわかってはいるんだが、正直、君には
 ――君たちには、これ以上何事もなく平穏に生きていって欲しいと願わずにはいられないよ」
「諏訪さん・・・」
「無論こういうことになった以上、後始末のごたごたに巻き込んでしまうのは避けられないが・・・
 それでも、できるだけ最小限に食い止めたい。そのために打てる限りの手を打ってきたはずな
 んだが」
「俺たちは大丈夫です」
 恭介は穏やかにこたえた。
「諏訪さんは充分してくださってますよ。他に何かあったとしても、俺たちみんなで切り抜けますから。
 安心してください」
「・・・君は、本当に強いな」
 諏訪は笑った。
「そうだな。私は、私のやるべき事を尽くすよ」

 それからまたしばらく話をし、制限時間も終わりに近付いた。
 辞去の挨拶をしようとすると、諏訪が何かに気付いたという顔で話しかけてきた。
「・・・真神くん、君は塩武や庄司君と面会する事はあるのかい」
「は?」
 立ち上がっていた恭介は目を丸くした。
「いえ、俺が会ってるのは諏訪さんだけですけど・・・」
「そうか。・・・いや、この間公判の打ち合わせをしていてね、彼等が君の事を気にしていたという
 話を聞いたものだから」
「『気にしていた』って・・・」
「それが、君が元気でやってるかどうか担当の弁護士に尋ねてたというんだが」
 二人でなんとなく顔を見合わせてしまう。
「・・・あの人たちが俺の健康を気遣ってくれるとは想像しにくいんですけど・・・」
 最後に対決した時の経緯からいっても。
「私も実はそう思ったんだが、君が彼等を改心でもさせたのかと思ってな」
 諏訪は軽く頭を振って笑った。
「まあいい。妙な話を聞かせてしまったね。――それじゃ、くれぐれも身体には気を付けてくれよ」
「はい、ありがとうございます。諏訪さんもお元気で」
 そうして、その日の面会は終わった。

 無事、拘置所から脱出した帰り道、昼食をとりに入った店で恭介は尋ねた。
「氷室さん、どうしていつもすぐ控室に行かれちゃうんですか? 別にいてもらってかまわないのに」
「積もる話をジャマしちゃ悪いだろ。それともお前さん、参観日みたいに保護者が後ろにいないと
 気になるか」
「氷室さんっ」
 にやにやしながら「冗談だ」と言われて、テーブルに倒れ込みたくなる。
「いや・・・ オジサンにも、意地があってさぁ。お前さんにしろ鳴海さんにしろ、偉いよ」
 そう呟いて氷室は煙草に火を点ける。
「・・・こだわっちゃうんだよなぁ」
 漂っていく紫煙を目で追いながら誰かの事を考えているのがわかって、恭介はそれ以上
何も言わなかった。――それが誰かも、多分わかるような気がした。

「そういえば所長が俺の遭った事故の事を調べてるって聞いたんですけど」
 そのあと渋滞に巻き込まれて車がしばらく止まってしまった時、恭介は思い出したことを氷室に
聞いてみた。
「あー、確かに来てたなぁ鳴海さん」
「どんな事を調べてたんですか」
「お前さん、聞いてないの?」
「朝は出かけた後だったし、夕方呼び出された時は今日の面会の連絡だけでしたからね」
「ふぅん」
 氷室は顎を撫でた。
「いや、俺も詳しい事は知らないんだよ。あの事故自体、管轄は水波署内だし事故だから
 交通課の担当だし。ああ、運転手が妙なクスリやってたって話はしてたなぁ」
「そこまでは新聞にも出てましたけど」
「俺が知ってる事も大して変わらんよ。そうだな、そのクスリはネット上でその手の怪しい通販
 ページから注文して手に入れたそうだ。なんか尿検査しても麻取法で指定されてる成分が
 出てこないんで、そっち担当の連中が困ってたとか。あ、これ内緒な」
「わかりました」
「鳴海さんも何考えてんだか判りづらいからなぁ。弟子のお前さんの方がわかるんじゃないの?」
 氷室は笑った。
「俺が署で声かけたら、『いや、あの事故に労災保険はきくのかなぁって思ってさ』とか言ってたぞ」
「ろ、労災保険・・・っ」
(探偵に労働災害保険ってあるのか?)
 恭介は真剣に頭が痛くなった。
「気になるなら本人に直接あたった方が早いんじゃないか」
「まともに教えてくれればいいんですけどね・・・」
 なんとなくはぐらかされそうな気がする。
 とはいえ、確かに聞いてみないと始まらないので早目に誠司の所に行ってみようと恭介は思った。

 結局、遠羽市に辿り着いたのは午後も遅くなってからだった。
 氷室と別れてから事務所に行ってみたが、やはり誠司の姿はなかった。
 京香に尋ねてみると氷室から『無事帰ってきた』という電話があった後、どこかに出て行ったそうだ。
(逃げられてるのかな・・・)
 考えていると、京香が少し伏目がちに聞いてきた。
「・・・諏訪さん、元気だった?」
「ええ、お元気でしたよ。ただ最近忙しくて、少し疲れ気味だってことでしたけど」
「そう・・・・・・」
 気を取り直すように、京香は目を上げて少し微笑んだ。
「じゃ、真神くんが無事なところを見せてあげたらきっと喜んでくれたわね。良かったわ。――あ、
 そうだ。真神くん、あのダイレクトメールもう捨てちゃった?」
「え? ああ、あれですか。多分まだ家にあると思いますけど」
 何となく気になるので、あの手紙は捨てずに取ってあった。テーブルの上にでも置きっぱなしに
してあった筈だ。
「同じ紙ならやっぱりお父さんが欲しいって。今度気が付いた時にでも持ってきてもらえる?
 ごめんね、変な事頼んじゃって」
 本当にお父さんたらもう、とふくれてみせる。
「いいですよ」
 そういえば、あの“所長命令”についてもちゃんと話を聞いていない。
 ――そんな訳で用事はいろいろあるのだが、肝心の誠司は一向に帰ってくる気配がなかった。
 外が暗くなってしまい、怪我の具合を心配する京香に帰宅を命じられてしまったので、恭介は
仕方なく、この日は柏木邸に戻ったのだった。

         *          *         *         *         *

 夜の何処かで電話が鳴る。
 受信ボタンを押すと前置きなしに声が話し出した。
「第1フェイズの確認に入る」
 そして告げられる日時と場所。
「――了解」
「くれぐれも余計な手出しはしないように」
 その一言で電話は切れた。


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