目がさめた時そこにあったのは、どこか見覚えのある和室の天井だった。
(・・・えーっと・・・)
 まだぼんやりしている思考の中を手探りして、自分が柏木邸にいる事を思い出した。
(そうだ、退院して・・・うちじゃなかったんだ)
 時計の置き場所もいつもと違う。頭をめぐらせて手を伸ばしてみると・・・
「うわ、しまった寝過ごした!」
 つい一気に起き上がろうとして背中の傷の痛みに引き戻される。
「――――!」
 ちょっと涙目になりながら大急ぎで着替えて部屋を飛び出した。

「哲平、起きてるか? 入るぞ!」
 ばたばたと廊下を走って、声をかけると同時に哲平の部屋の戸を開ける。
 哲平はもう起きていて朝のテレビを見ながら布団の上で一服している処だったが、恭介の
勢いにぎょっとして振り返った。
「わ! な、なんや恭ちゃん!?」
「ごみの収集日だよっ! ちょっとそこどいて」
 哲平を押しのけ、布団の上や周囲、そして部屋中に散らばった、紙屑やらコンビニの袋やら
食べ物類の空き箱やらを、片手に掴んだ地域指定のゴミ袋の中に次々放り込む。
「ぜんっぜん変わらないなこの部屋。あ、ペットボトルは洗ってこの次の資源ゴミの日、と。
 ――空缶を灰皿代わりにするなって何度言ったらわかるんだよ!」
 哲平は呆然としながら、一応抗議を試みた。
「恭ちゃーん、なにも退院翌日から掃除に燃えなくてもええやんか〜・・・」
「駄目。昨日お手伝いさんにこの地区のゴミ収集日聞いといたんだ。どうせ一日二日で元に
 戻っちゃうんだろ? だったら毎回片付けとかなきゃ溜まる一方じゃないか。ほら、もうすぐ
 回収車の来る時間なんだから」
と追い立てられる。
 ――掃除中の恭介には逆らえない。
「か、堪忍して〜・・・」
 柏木邸の廊下に朝から哲平の悲鳴が響き渡った。

 朝食の席で、久蔵は肩を軽く震わせて笑っていた。
 向かい側には、ひどく疲れた様子で箸を止めている哲平と、すまして食事をとっている恭介が
並んで座っている。
「どうした哲平。お前が食欲ないなんて珍しいな」
「・・・恭ちゃんのいけず・・・・・・」
 プチ女王様とか掃除大魔神とか、不穏な単語がぶつぶつとその後も続いていたようだが、
恭介はそれを無視した。
「うちの住人としては画期的だな。ふむ、いい機会かも知れん。真神くん、よろしく頼むよ」
「はい」
「ご隠居――!!」
 たまらず声をあげた哲平は、恭介の次の台詞に硬直した。
「あ、後でお前の部屋、掃除機かけに行くからな。さっきはごみ拾っただけだし。携帯の店が
 開くまで時間あるから」
「!! い、いいっ! オレ自分でやるっ」
「・・・・・・できるのか?」
「それくらいはオレだってするし! 恭ちゃんは忙しいんやろ。もうええから、別の用事済まし
 ときって。な?」

 食事の後、必死の形相の哲平に柏木邸から追い出されてしまったので、恭介は仕方なく
自宅のあるマンションへ足を向けた。
 病院から持って帰ってきた洗い物を洗濯機にかけて、その間にパソコンを立ち上げ、友人
達に事情説明と退院報告のメールを送る。明日になったら一斉に大騒ぎの返信が来て、また
その返事に追われる事になりそうだった。
 ふと気がつくと、画面の隅に立ち上がったチャットツールにはいつの間にかオフラインメッ
セージが入っていて、一言「お帰り」とあったりする。
(・・・さすがだよなぁ・・・・・・)
 ハッカーの友人の手並みに感心しつつ、「ただいま」のメッセージを返してひとまずパソコンの
電源を落とした。
 洗濯物を干し終わるとちょうどいい時間になったので、とおば東通りへ出かけて携帯ショップへ
入る。
 そこで無事新しい携帯を手に入れて事務所に向かう頃には、時刻はぎりぎりで午前中という
ところになっていた。
 かなり久しぶりの気がする階段を上がって、事務所の扉を開く・・・
「おはようございまーす」
 中にいたのはデスクに向かっている京香一人きりだった。笑顔で立ち上がり、出迎えてくれる。
「おはよう、真神くん。――お帰りなさい」
「はい。・・・遅くなって、すみません」
 一歩入った所で立ち止まり、頭を下げた。
「――所長はお出かけですか?」
 テーブルの上に吸殻が山積みの灰皿を残して姿の見えない誠司の事をたずねると、
「うん、さっきまでいたんだけど、何だか出てっちゃって。すぐに戻るとは言ってたんだけど・・・」
 真神くんが来ている時には居て欲しかったのに、と困った顔をする。
「そうですか・・・」
 例の“所長命令”について問い質してみたかったのだが、先を越されて逃げられたのかも
知れない。もっとも、居たとしても正面から訊いてまともに答えてもらえるとは限らないのだが。
 とりあえず後の機会を待つ事にして、恭介は自分の方の報告をする。
「さっき、壊れた携帯を交換して買い直してきました。番号は何とか同じのが使える事になりました
 から大丈夫です」
「そうなの? 良かったわね」
「変わっちゃうと知り合い全員に連絡しなくちゃいけませんからね」
 京香がコーヒーをいれてきてくれたので、二人でソファに座って話をする。
「真神くん、今日は、この後の予定は?」
「哲平と一緒に行く所があるんで、それくらいですけど・・・」
 まさかいきなり成美に調査の続きを言いつけられましたとは答えにくい。
(ご隠居のお使いもあるから嘘じゃないよな・・・)
と心の中で言いわけしてみる。
「ふうん、白石くんと? 遠いの?」
「いえ、そんなには・・・」
「そう。退院したからって、急にたくさん動き過ぎないでね。お父さんもね、用のある時は呼ぶから
 しばらく適当にしててくれって言ってるの」
(適当って・・・)
 本当に成美が言っていた通りらしい。
「えーっと、依頼の方は」
「あ、うん。ちょうど一つ片付いたところでね」
 京香は目を逸らして言いにくそうにしている。――隠し事は別にうまくなっていないようだ。とすると
昨日の朝柏木邸に連れて行かれたのは、やはり寝てしまったこちらの不覚ということか。
「・・・所長は何を調べてるんですか」
「えっ!? ど、どうして真神くんわかったの?」
 あまりに素直な反応に溜息が出る。
「まさかと思いますけど、依頼を断ったりはしてないでしょうね」
「ううん、そこまでは。でも、あまり急いでたりとか込み入り過ぎてそうな話は受けるなって」
 ――仕事を選べるような状態だっただろうか、この事務所は。
「それで、所長は何処へ行くって言ってました?」
「遠羽署と水波署へ回って来るって・・・」
「・・・もしかして、俺の遭った事故の件ですか」
「・・・う、うん・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
 気まずい沈黙が落ちる。
 所在なげに視線を動かした京香の表情が、時計を見てぱっと救われたように変わった。
「あ、もうお昼よね! 真神くん、ご飯まだでしょ? 行ってらっしゃいよ。それで、その後白石くんと
 出かけるのよね? 途中で何かあったら携帯に連絡するから、今日はもういいわよ。明日も
 好きな時間にまた来てくれればいいから! ね?」
 今日はどうもあちこちから追い出される日らしい。
 背中を押されるようにして事務所から出た恭介はそんな事を考えた。

「・・・ふん。二人揃って来おったか」
 質店阿舘の主、静は入ってきた恭介と哲平を見て無愛想に呟いた。
「またうるさくなりそうじゃの」
「それはないやろ、ばあさん。せっかく客が来とんのに」
「金にならんのは客とは言わんわ」
「す、すいません」
 自覚のある恭介はつい謝ってしまう。それに目をくれた店主は、
「・・・女をかばって車にはねられたそうじゃな」
「は、はぁ」
「やはり女運が良くないのぉ」
「・・・・・・・・・・」
 さらに何も言えなくなる。
「あんまり恭ちゃんいじめんなや、ばあさん。――これ、ご隠居から」
 哲平はカウンターの上に白い封筒をすべらせる。
 静は年齢に似合わぬ確かで素早い手付きで中身を確かめ、
「待っとれ」
と一言残して店の奥に消える。
 ほどなくして戻って来ると、茶封筒をショーケースの上に置いた。
「ほれ、なくさずに柏木のタヌキに渡すんじゃぞ」
「へいへい」
 そこで立ち直った恭介は自分の用事を思い出して話をきりだした。
「あの、聞きたいことがあるんですけど」
「・・・なんじゃ、こいつの付き添いだけではなかったんか」
 どーいう意味やそれ、と突っ込みを入れる哲平をなんとか抑えて質問する。
「えーっと、“運命をはかる天秤”ってどういうものなんですか?」
「そんな事を言い出すのはあの娘じゃな」
 再び睨まれる。
「しゃあないやろ、オレらねーさんには逆らえへんし」
「よう言っとけ。あれは、定まった形のあるものではないんじゃ。後からそうと判るもんで、
 こちらから探せる物ではないとな」
「――きまった形がない?」
「そうじゃ。或る時はどこぞのホールに飾られていた女神像が持っていた事もあり、別の時には
 ある屋敷の部屋に掛かった一枚の風景画の片隅に描かれていた事もある。或いは大きな
 花活けの浮き彫りに宿っていた事もあったそうじゃ。いずれもその周囲で大きな運命の変転が
 あったのち、あれがそうかと気付かれる頃には忽然と消えておったという」
「・・・・・・・・・・・」
 わかったようなわからないような話だ。
 いずれにしても、例によってオカルトめいた話だし、成美には納得してもらえそうもない。
 老女からはそれ以上の話は教えてもらえなかったので、二人は引き上げる事にした。
「んじゃまたな、ばあさん」
「ふん。この間のしおれっぷりが嘘のようじゃと恵美(しげよし)に言うといてやるわ」
「言わんでええって!」
 肩を怒らせて引き戸を開けた哲平に続いて店を出ようとすると、後ろから呼び止められた。
「・・・気を付けることじゃな。“天秤”はある種の人間の側に好んで現れる事があるという話じゃ。
 知らんうちに引き寄せとるかも知れんぞ」
 人外のものにまで好かれるのはすごく遠慮したい。・・・一応人類の範疇に入るものにも苦労
しているだけに。
 かなり脱力する思いで、恭介は店の戸を閉めた。

「――大丈夫か、恭ちゃん?」
 二人は天狗橋の上で少し足を停め、休憩していた。風がないので水の側でもそれほど寒くは
ない。
「うん・・・。今日はあの店、いつにも増して精神的ダメージが大きかったような気がする・・・・・・」
 正面から欄干にもたれかかり、川の方を見ながら恭介はぼやいた。
「あーよしよし。ほな、早目に帰って夕飯前にひと休みするか――」
 人の頭の上でぽんぽんと手を弾ませた哲平が、急に途中で言葉を切って、「げっ」という声を
たてた。
「あー、見習いと哲平ちゃん発見――!!」
 台詞と共に足音が急速に接近してくる。
「えっ!?」
「わー奈々ちゃん待った! 後ろからの攻撃はやめーっ!!」
 すんでの所で哲平が割って入り、なんとか背面から襲われるのは免れた。ようやく身体を
起こして向き直る。
 制服と鞄、という事は学校帰りなのだろう。相変わらず無敵に元気そうな奈々子が、そこに
ニコニコして立っていた。
(しまった、もうそんな時間だったか・・・)
「奈々子お前っ、俺を殺す気か!?」
「えー、だって見習いもう退院したんでしょ?」
「退院したからって怪我が完治したわけじゃないんだよっ! それに俺の傷、ほとんどが
 背中側なんだから・・・」
「あっねーねー、奈々子これから一度家に帰って、その後バイトの時間なんだ。二人とも来る
 でしょ? 新しいデザートメニュー入ってるんだよー。退院祝いに出してあげるから」
 ・・・やっぱり聞いてないし。
 そこへ息を切らせた奏が駆け寄ってきた。
「すっ、すみません・・・ 奈々ちゃん急に走り出しちゃったから追いつけなくて・・・」
「あーええよ、奏ちゃんのせいやないし」
 襲撃は阻止したし、と哲平が慰める。
 奈々子のクラスメートで世話役兼通訳という同情すべき役割を引き受けている奏は、胸を
抑えながら律儀に挨拶してきた。
「真神さん、退院おめでとうございます」
「ありがとう。あ、この間のお見舞いもね。わざわざ奈々子と一緒に来てもらっちゃって。あの
 病院、遠かっただろ?」
「いえ、電車に乗ったら結構早かったです」
「あそこの先生面白かったよねー!」
 話題を飛躍させた奈々子がごく自然な顔をして会話に入り込んでくる。
「・・・そうか、お前、うまが合ってたよな、あの先生と・・・」
「・・・やっぱ近寄らんで正解だったかも」
 こっそり感想を述べ合っているとポケットから電子音が鳴り出した。
「あ、電話・・・」
 携帯を取り出す。途端に奈々子が目を輝かせた。
「新しい携帯だー!! ねー見習い、見せて見せて!!」
「だから掛かってきてるんだって! 後にしろよ!」
 しかも画面を見ると事務所からだ。
 哲平と奏の二人掛かりで奈々子を抑えてもらって、恭介はようやく電話に出た。
「はい、真神です」
『もしもし? 京香です。真神くん、まだ外にいる? それとももうご隠居さんの所に帰っちゃった?』
「まだ外ですよ。ちょうど用事が終わったんで、これから戻ろうとしてた処です」
『じゃあ、帰りにちょっと事務所に寄ってもらっていいかしら。お父さんが来て欲しいって言ってるの』
「所長が? ――わかりました、すぐ行きます」
 通話ボタンを切って振り返る。
「ごめん、哲平。所長に呼ばれたから、俺、事務所に行ってくるよ」
「そぉか。ほな、オレは一足先に帰ってるわ」
「えー、二人ともサイバリアに来ないのー?」
 奈々子が不満そうな顔をする。
「仕事だからしょうがないだろ」
「オレもお使いの帰りなんや。早よ戻って報告せんとな。また今度!」
 奏にゴメンと手を合わせ、二人は揃ってその場を逃げ出した。

 事務所に着いてみると、今度は京香が留守にしており、誠司が一人でデスクの後ろに立っていた。
「よぉ、元気そうだな青少年」
「はい、おかげさまで。・・・・・・いろいろお手数おかけしました」
 頭を下げると、ふっと笑って肩をすくめられた。
「ま、行方のくらまし方はまだ俺に及ばんな。愛弟子とはいえ、もちっと修行が必要だぞ」
「そういう修行はあんまりしたくないんですけど・・・」
 わざと行方不明になった訳でもないし。
「それで、何か・・・?」
「ああ」
 誠司は窓の方を向いて、ブラインドに手を掛けた。そのまま少し遠くを眺めるようにする。
「・・・・・・・高貴がな、お前に会いたがってるそうだ」
 恭介は黙って誠司の背中を見つめた。
「明日の朝、ビジネスパークで氷室が待ってる。――行ってやってくれるか」
「はい」
 頷くと、誠司はちょっと頭を振ってこちらを向いた。
「・・・それだけだ。すまんな、呼び出して」
「いえ・・・・・・。諏訪さんに、何か伝言はありますか」
「いや、いい」
 煙草を取り出して火を点ける。
「朝が早いし、帰りも時間がかかるだろうから明日はこっちに顔を出さなくてもいいぞ」
「わかりました。間に合うようだったら連絡します」
「ああ。じゃ、今日は上がってくれ」
「はい。――お先に失礼します」
 もう一度頭を下げて向きを変え、扉に手をかける。
「体調に気を付けろよ」
 事務所を出る間際、そんな言葉が後ろから呟きのように聞こえてきた。


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